彷徨う思いはどこへ行くのだろう?
観察し、記録し、目撃し、報告することを職務とする神聖な生き物である天使は、どうでもいいと思われることを修正するという仕事もこなしている。
天使たちが大人の世界から敬意を払って距離を置くのは、皮肉が非常に効いているとはいえ、優しさに満ちたアプローチである。この名もなき存在は、私たちの最も親密な欲望を察知し、意味と美を求める人間の情熱と不安を目撃する。
天使は人々を観察し、その声に耳を傾ける。絵を描く子供から、自分の過去を再発見しようともがく年老いた詩人まで。轢かれてしまう自動車運転手から、空を舞う楽しいアクロバットまで。天使は観察しているが、学ぶことは何もない。そう、彼はすでにすべてを知っている。いつもそうだ。時間の始まりと終わりを知り、この人が息子を心配していることも、この人が妹に会いたがらないことも知っている。そして、彼は知ることに疲れ果てている。
私たちが毎日している小さなことが、どんなに些細なことであっても、それを記憶し、いわば絵本や百科事典のように保存している何らかの精神によって観察されているのだろうか、それとも逆に、これらの一見些細な仕草は、未来のために捨てられ、忘れ去られ、なりゆきの川に捨てられているのだろうかと、誰もが考えたことがあるだろう。
誕生すると、天使がすべての子供たちを訪ね、これからの人生について告げる。天使は去るとき、口の上に印を残す。生まれるためには忘れなければならない。しかし、人間は誰でもこの秘密を忘れてしまうが、天使は覚えていて、人生の秘密を知るという重荷を背負っている。子供が子供であったとき、彼は自分が子供であることを知らなかった。しかし天使は決して子供ではなかった。天使にとって、人間の世界に入るということは、天使の印を持つということなのだ。天使にとって、自由は知識が終わったところから始まる。
天使を撮影することは、日常生活の魔法や平和な生活の素晴らしさをできるだけ再発見することであり、それが忘却の彼方に落ちないようにすることである。このようにして、私の写真は天使の使命を果たすのである。これらのイメージを公開することは、伝統的に神聖な仕事に対する私の冒涜的で不完全な解決策である。その意味で、天使たちがモノの本質しか見ていないかのような白黒を使うことは、避けられないことなのだ。
ヴィム・ヴェンダースの映画『欲望の翼』に感謝する。彼らの向こう側を見ることができた『No Te Mueras Sin Decirme Adónde vas』のエリセオ・スビエラに感謝する。